昭和48年12月28日 朝の御理解
御理解 第15節
「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。」
神は喜ばぬぞということ、神もひれいじゃがとこうおっしゃっとる。だからひれいということは、神様が本当に喜んで下さるということ。本当に喜んで下さって、神様が生き生きと神様が生きた働きをして下さるということ。ですから神様に生き生きと喜んで頂くような用え方でなからなければならない。それを氏子の真心と 昨日大分教会の七十年祭の記念祭に、今年あったそうです。
その記念に御本を先日若先生が久留米から頂いてきています。やはりあれだけの御ひれいを頂かれるには並大抵でない御修行がやっぱりあっている。大体あちらの初代は鳥栖のお方で何とかの村といっている時分の村長さんまでなさった方です。名門いわゆる家柄の方ですけれども、初代久留米の石橋先生の教えを受けられて大分に布教。いわゆる久留米の一の枝と言われる布教をなさった。
私この御本を読ませて頂いて、はじめてわかったんですけれども、御本部の正門ですねあの欅造りのあれだけが残っている。あれと手洗いだけが残っているわけです。あれと同じような御普請があった時には、御炎上になってしまいましたけれどもあの楼門と手洗いだけが残ったんですけれども、あの楼門、当時久留米の石橋先生が桂先生の後に続かれて、まあ経理部長格でおかげを頂かれた。
それであれは久留米からお供えがあるようになっていた。ところが久留米の方に手違いが出来て、それが出来なくなった。その時に大分のいわゆる一の弟子であるところの八坂先生がお見えられたところが、そのことを石橋先生が御相談になった。そこで八坂先生がそんならそれは私がおかげを頂きましょうというて帰られたけれども、あてはない。余りに沈んだ御様子をしておられますから、ある御信者さんが何かあったんじゃないですかと言われて、実はこうこうだというて話された。
それでまあその当時、大変羽振りの良かった御信者さんにあんたの裏付け、あたの保証で金を貸してくれないか、当時の金で壱万円そしたらその信者がそんなら、それは私がおかげ頂きましょうと仰った。その時に八坂先生がおかげ頂いたというて、もう御苦労さんという意味の事は、これから先も仰らなかったという。そう言う事である、あの楼門は出来ている、そういう内容のこと御本を読ませて頂いて初めて知りました。
あちらの教会で大変有名な木元さんという御婦人があった。久留米で三羽からすといわれる程の女の熱心な婦人の先生。婦人の方でこの方は大変霊徳が優れられて、大分の信者のもう先生方は全部この人の教えを受けて、その人のお知らせをもって皆、教師になっておられる。九人か十人か教師になっとられますがね、その木元さんという方は、自分の信心の大恩人といわれるというくらいに、だから、自分は教師にならずに金光教御道案内という看板をあげて、沢山の人がここへ集まった。
そしてそれをみんな大分教会へ御導きされた。私共もお話聞いてました。大変有名な方です。その方がはじめて第一の信者でお引き寄せ頂いておられる。その時に八坂先生の御一家はもう、食うや食わずの状態の中に、御神飯を親子三人でお粥のようにして頂いておられるような時代のときに、お参りされた時に、その木元さんに一番はじめに言うておられることは、ここに木元さんあなたが一万円積んでお供えしても、私は銭金では拝まんよと言うとられる。
けれどもあなたが真をもってお願いするならば、庭の落ち葉持ってきても、私が命にかけて願うといわっしゃった。そこんところが違うですね。庭の散り葉でもとこういわれる事だけども、本当に一心の真からならば、取次者、私は命にかけて願うと。この神様は只の神様じゃないというて、木元さんがそれに惚れ込んでいわば、信心を進めたと言われる。その事が書いてあります。
確かにそうです。真から用えるもの、確かに石橋先生の真心、八坂先生の真心それをお供えした人の真心がです、ああいう御炎上の時にです、これはもう金光の町の方が何人も見たそうですけども御炎上の最中にですね、桂先生が御装束をつけて、御祓いなされる姿を皆が拝んだといっておりますね。あの御炎上の中にそれだけが焼け残っとる。真心です。金光様の御信心する者は本当に真心をもって、一切の事にあたらしてもらわなければならない。用えさして頂かなければならない。
だから用えるということは用、御用の用と書いてある。役に立たせてもらうという事である。だからこれは金とか物品だけのことではないのです。なら御用に使うて頂くという皆さんの御用さしてもらう、例えば教会の御用さしてもらう。お便所の掃除さしてもらう。その他いろいろの事なさるというのも御用です そこでです、その御用に私は不浄があってはならないということ。私は昨日、最近私の御便所に、私の使わしてもらうお手洗いにお花が入れてあるが、水仙がさしてある。
最近それにおまけに枯れ果てたような枯れた何か木を一本、木というか草の花のもう枯れたやつ、お花によく使うんですがそれが又さしちゃる。もう愈々気になった。で私はその事をお願いさして頂いたらある方の事を頂いた。そして頂く事がね信心の旅立ちをするか、あの世へ旅立つかと頂いた。神様のおかげで命を頂いた。神様のおかげでだからこの命はもうあなたのもの、もうあなたのものあなたの事に用えるもの。
だからいわゆるその方がです、ならその体をです、信心に用えた時です、その方はおかげを頂くでしょうね。お徳を受けるでしょう。けれども、でなかったらあの世へ旅立つ、信心へ旅立つかあの世へ旅立つか、その事に私余りのことに本当にびっくりしました。その事を又一生懸命お願いさして頂いておるわけでございますけれども、今日はやれやれ安心したようなことですけれどもある事を頂きましたてね。
だから自分の五体を用えるということ、五体を使うて頂くこと、お役に立たせて頂くということにもです、真から用えなければ、神のひれいになってこない。神のひれいというのは、神様が生き生きとして喜ぶ。寄進勧化をしては、神は喜ばぬと最後におっしゃっとておられますから、いうてですははぁそんなら、真から用へれば神のひれいじゃがと仰る。神もひれいじゃがとおっしゃっとる。だからこれは神もただ喜びじゃない、生き生きとして躍動する。
生き生きとしてお前のために氏子の為に働かにゃおられないと言う事が神のひれい。だから神様が生き生きと喜んで下さる様な、用へ方にならねばいけない。そこで皆さんがお参りさせて頂くでも御用させて頂くでもです、もうそこに何というですか工夫という、真心がこめられなければいけないと言う事になります。ひれいと言う事は神の威、または盛大の意とここでは書いてあります。神様の御威徳です。どんな素晴らしい御威徳であっても盛大な働きにね、盛んな大きい働きになってこなければいけんのです。
その盛んな大きな働きが、そんな生き生きとした神の喜びが内容なんです。盛大の威というのは、神様が喜びも何にも求めなされん、一生懸命な働きなさるということじゃないです。そういう神様の生き生き、神様の喜びなさらなければおられない。そして生き生きとして働き下さらなければおられない程しのものは氏子が真から用へるという事なんです。そこでこれは寄進勧化ということは、まあ金の事やら物の意味でございましょうけれども、なら、私共がいま頂きますようにね。
真から用える所の御用、心から御用さして頂けれるところに神様は生き生きとしてそこに働きを現して下さると言う事になるわけです。私が善導寺の教会のお結界に奉仕させて頂いて、親先生が親教会にお出でてお留守、丁度月次祭じゃった。そしたら或る農家の方がお参りをして来た。そん時は大坪さん、大坪さんすみませんけどお月次祭にお供えしてあそこに薯(いも)は起こしとりますとフグい一荷あるくらいにである、で、すみませんが月次祭前に取りに来て下さらんかと仰る、それで私が申しました。
そげなことじゃお供えにならんですよと申しました。お三宝一台でもよいから綺麗に洗うて持って来なさい。その方は本当にそうだと思うて、それからすぐ帰ってお三宝一台、洗ってふいてそれから、ひ切らんした上げてから、それは薯だけではないまだ外にも持って見えた。もう善導寺の月次祭で、こげん賑々しいことはなかった。他にも沢山お供えがありました。それで親奥様が、次のお月次祭まで取っておくと言うてから、されるくらいじゃった。
私はあの時分からいろいろ思うのにですね、本当に氏子が真から用える道を教えるという事です。いや家からもらいにやりましょうと言うたら、もうそれは神のひれいにはならん。だからここでは、例えばお野菜一つでも皆さんが、例えば久富さん御兄弟が、合楽のお野菜は受け持っておられますけども、もうめごいっぱいもってこられるでも全部洗い清められてから持ってみえる。だからそれはひれいなんです。神のひれいなんです。上げましょうというのと、お供えというのとは、それだけ違うわけなんです。
本当に私はその事を思わしてもらうてから、神のひれいということは、例えば一人の氏子が、ああ、そうでしたというて、家に帰って薯をあらう、そこんところを私は取次いだことの神様の喜びがです、その時の月次祭はかってないほどお供えものが集まったです。本当にこれは又の月次祭にとっとこうというくらいにあったです。神様のひれいというものはたいしたもの。だからここの場合なんか盛大の意ということなんかは神様が生き生きとして喜んで働いておって下さるという事になるのです。
これは、だからお供えだけのことじゃない。皆さんの体を用えることもそうです。そこで、なら、工夫しなけれはいけないということです。朝の御祈念でもお参りしよと思うたらです、いつまでも深夜劇場など見とるような事をせずに、そこんところを工夫しなければいけんです。私は申しますけど、自分の一番大事な時間というものを大事にせなければいけない その為には工夫しなければいけない。
それは神様に用えなければいけないから、五時の御祈念なら、五時の御祈念、皆さんお参りになるでしょう、その五時の御祈念を一日で一番大事と思いなさるならです、その五時の御祈念が本当に、心から参拝が出来、心からいわば自分の体をお供えするのですからね、用えられることの為に、後先のことからいろいろ工夫さしてもらわなけりゃいけん。お金でもそうです、有り余ってするものはありません。おかげを受けてのこれはまた別ですけど、日々ならお初穂なさるでもです。
いうならばあれも買いたい、あれも食べたいけれどもです、もう食べたと思うて、買いたいと思うのをもう買うたと思うてと言う様な、そのところからお初穂というものは捻出される私はものだと思うです。それが私は真から用えるその前提だと思うです。体でもそうです、もう疲れ果ててどうにも出来ない体で、この体を用えて下さいと言うたっちゃ用えられんじゃないですか。居眠り半分で御用したっちゃそれでは、用えた事にはならんでしょうもん。
だから用えて頂くためにはです、その自分は御用なら御用させて頂く時間だけは、生き生きとして神様に用えて頂けるために、いうならば金銭でも物品でも、なら自分の体でもです、工夫しなければいけないということ。おかげを頂いて喜びいっぱいで御用さしてもらう時は又別です。けども本気で御用に打ち込もうという、いうなら用えて頂こうというならばです、一番その大事な時間を、愈々有効にしかも生き生きと用えて頂くことのために私は工夫をしなければいけない。
ここで百円使うところを五十円使うて、五十円をお賽銭に使わして頂こうという、そこに真が現される。その真がです神もひれいじゃがとおっしゃる。それは盛大の意、神のひれいということは生き生きとした神様の喜びがしかもそこに、喜びを現さなければおられない程しのことを、神のひれいと、神の生きた喜びということ、その生きた喜びを得る生活を、生きた信心生活だと思うですね。
どうぞ。